呉伯焰&私学校龍眠楼

呉伯焰老師と私学校龍珉楼略史

呉伯焰老師十五歳・七星梅花螳螂拳

【老師十五歳・七星梅花螳螂拳・1975年・昭和50年】

呉伯焰老師は道号を閑遊道人、玄宗子。1959年広島県呉市に生まれた。

一般に中国人とよく誤解されやすいが、"伯焰"とは拝師名であり、"呉"とは出身地にちなみ老師の命名により冠しているにすぎない。 即ち呉老師はれっきとした日本人である。道号とは呉老師の黄道教十三代掌門人としての號による。

呉老師の師である陳世傑師爺は黄道教第十二代掌門人であり、その系統は近代仙道の祖とされる趙避塵の後継者、孫錫坤に師事されたいわば正統直系である。 呉老師が仙道及び道教にきわめて造詣が深いのは当然の理であろう。 ちなみに師爺・陳世傑並びに師祖、孫錫坤両氏は八卦掌の大家として広く武林界で知られるところである。

さて呉老師は現在数少ない真正武術家であり私学校龍珉楼館長として世に拳名を馳せておられるが、 その修行時代を語るにあたり、まずは簡単ではあるが龍珉楼設立までの話から述べておかねばならない。

1949年、政変により蒋介石軍は台湾へ渡来したことになっているが、実際には今日我々が歴史の教科書で見るような安易なものではなかった。 1949年に毛沢東の人民解放軍に追われた蒋介石はビルマに敗走したが、 ここでもビルマ軍に攻撃され蒋介石が卒いる中国国民党(KMT)軍はもはや大陸反攻が非現実的なものであることを悟ると, KMTはOSS(CIAの前身)と手を組み、ひとまずは勢力の立て直しを考えるようになった。 その中において李文煥将軍が指揮者となり反共をスローガンとする米軍、特にOSSからの補給物資や軍事顧問団の大陸派遣に先がけて、 当時焼土と化していた日本を立て直しの準備基地とすべく、それも戦前は帝国海軍の拠点であった広島県呉市の山中へ、資産の一部と共に精鋭なる武術家をつけて送り出した。 (註) 一方では蒋介石を無事に台湾へ逃走させるべく黒社会の中より十四Kに依頼し、ついに台湾へは何応欽将軍の指揮のもとに成功した。 (ちなみに十四Kとは1945年に広東市埔華路十四番地の邸宅で結成されたことにその名称を由来する。) さて当時の日本は未だ独立国家ではなかったが、逆にそのことが日本へ駐在している米軍にとって好機であり、受け入れに際して日本人もそれを利用した。 これが世にいう"児玉機関"の一面である。(戦後、日本の政財界における彼らの黒幕としての地位は、このとき得た利益や資産の一部流用をフルに活用したために得られたものである。)

一方、李文煥将軍の指揮によって日本へ送り込まれた武術家達がまず何よりも第一に行ったことは、一朝有事に備えての子弟育成に全精力を傾けることであった。 しかしながら月日が流れて行く間に、蒋介石は亡くなり中国本土でも文化大革命などが行われ、 時勢が大きく転換するようになったため、彼らは当初の目的を中止し、新たに伝統技術の保存・整理を主旨とした指導内容へと移行したのである。 とりわけ旧国民党本部の江兆銘首席の護衛総官および私設秘書であった金斉臣(1908~1976)師爺を筆頭に陳世傑(1896~1979)師爺の二大柱を中心に、広く海外の武術家と交流を結んだ。 以上が龍珉楼の設立に至るまでの概略である。

ちなみに龍珉楼という名称と、その中に含まれる門派、技術内容が初めて一般に公開されるようになったのは、 呉伯焰老師が16歳にて広島市内で正式に教授を始めてからである。

(註) 終戦当時、日本人の戸籍を中国並び朝鮮人の方々が売買によって習得しているケースは、先の厚生労働省の調査発表にもあるとおり別段珍しい事ではないが、 注目すべきはそれが特定の県にのみに集中している事である。 ちなみに広島県は第一位となっている。このような事がなかば公然と行われたのには呉伯焔老師の老師の方々を含め、 旧・新問わないKMT(国民党~旧は汪兆銘、新は蒋介石)に対するアメリカ政府のテコ入れがあった事実は以外と知られていない。 即ち諸老師渡訪の年の前年である1950年4月、アメリカ政府はトルーマン大統領の名のもとで「東南アジアにおける共産主義活動阻止を目的とする特別法案」を可決し実行に移した。 つまりKMTが弱体化したことによって毛沢東政権の中国が東南アジアへ進行するのではないかと言う危惧から行った事である。 従ってその拠点となる国の中の一つであった日本が、第二次世界大戦、ドイツ・イタリアと並んで最後まで抵抗したのにかかわらず、 ドイツのような分割政策(現在はドイツも東西一つではあるが)がなされなかったのである。 現実に戦勝各国より、日本の分割案は出されたが、これを最後まで押さえつけたのはアメリカである。

文責/私学校龍珉楼 編集室

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